松原病院労働組合結成の歴史
松原病院は北陸で初めての精神科私立病院として、昭和2年に風光明媚な金沢の兼六園の近くに創設されました。当時は木造で、言うまでもなく戦後の復興期を経て食料確保の業務などそこで働く労働者の労働実態はすざましいものがありました。病院もすこしずつ近代化しましたが、多くの患者さんを収容する経営の厳しさは続き、そこで働く労働者の労働条件は過酷な状態が長く続いていました。
そんな中でも、これまでも何回となく「自分たちの生活を守りたい」「もっと仕事にも誇りを持ち喜ばれる看護がしたい」と、労働組合を立ち上げるために諸先輩方がご苦労されていましたが、結局は準備をしている段階で経営者からも釘をさされて、立ち上げを諦めてしまう時代が何年か続きました。
松原病院の組合が結成されたのは、1986年1月3日です。今年で38年目を迎えます。当時は、就業規則も職場でいつでも見られるように配布されておらず、賃金体系も明らかになっていませんでした。有休も取得できず上司や経営者の指示は絶対的でした。職場は殆ど民主的な風土はありません。当然、医療内容や看護内容も人権を尊重したものではなく、患者さんと職員の間の権力関係にも影響がありました。職員は、勤務が終わった後に仲間で集まり「こんな職場でいいのか」「もっと患者さんに寄り添った仕事がしたい」「患者さんの人権を尊重した取り組みをしたい」「何でも言い合える職場の雰囲気を取り戻したい」など、愚痴や不満を言い合いながら「よし、やろう、組合を作るしかない」と労働組合結成準備委員会を立ち上げました。合わせて同時に、現在の上部団体の日本医労連の組織担当者にも相談しました。丁度、準備委員会を立ち上げてから1年も過ぎない頃の年末に、準備委員会の中心になっていた看護師と事務職員計3名の出向命令の辞令が突然、病院から出されました。それも松原病院傘下の施設や病院に3人がバラバラになるような出向命令でした。これはまぎれもなく労働組合結成に対する妨害と捉え、この機を逃したら、諸先輩方がこれまでも労働組合の結成を断念した時と同じになる!今しかない。と決断して年末年始を返上して、寒い雪の降る中、職員の自宅に1軒1軒訪問して事情を説明し、頭を下げて組合の加入の声掛を行いました。正月であるにも関わらず、職員の思いは共通しており「今の職場を変える事ができるなら協力するよ。やろう」と快く多くの職員が組合に理解を示し加入してくれました。ようやく正月の1月3日の結成大会を無事に行う事が出来ました。
労働組合が結成されてからは、労働組合の主要メンバー3人の出向命令は撤回し、労働基準法に照らし合わせても矛盾が生じている問題から改善要求をし、多くの問題が改善して行きました。また、労働組合は、医療看護改善と労働条件改善は車の両輪で、どちらか一方が欠けても前には進まないと言う考えから、看護や医療の質の向上に向けて提言運動も行ってきました。
労働組合活動は憲法で保障されていますが、当時は全国的にも労働組合を組織する企業は少なく、労使関係も対立するような関係が長く続きストライキを構えての闘いや、時には不当労働行為と思われる出来事もありました。組合側も結成した当初はルールを熟知せず、病院側から労使関係を崩す行為と指摘される事もありました。しかし、永年に渡り労使関係のあり方を模索しながら労働者も経営者も病院の経営の安定と発展、チーム一丸となり働く民主的な職場を作りたいと言う思いは一致した要求でもあり、病院の危機があるとき(コロナなど)は労使で協力して最善を尽くしていくような話し合いが出来るようになってきました。
精神保健医療福祉の情勢は、年々と厳しさを増し、病床利用率も低下して病院の存続自身が難しくなってくる流れは遅かれ早かれやってきます。各民間の病院が独自で解決できる事が出来ない局面が必ず来ます。
これから先の事を見通しながら、今後の精神病院のあり方や精神保健医療福祉政策はどうあるべきか真剣に労使ともに考え、私達の生活を守る闘いと病院を守り発展させる闘いを共同で取り組めることは取り組んで前に進んで行きたいと思います。