五差路塾学習会に参加して
優生保護裁判判定から
テーマは「優生保護法の違憲最高裁判決の意義」 講師:藤井 克徳さん
最高裁の判決を通して判決の意義と優生保護法のどこが問題だったのか、これからの課題など話されました。講師は藤井 克徳さんです。
最高裁の判決で「国は謝罪と補償を!!」との判決を受けて初めて岸田総理と子ども家庭庁大臣が、原告の皆さんに謝罪しました。
「そもそも優生保護法は憲法違反である。」(第13条すべての国民は個人として尊重される。幸福兼 第14条何人も平等でなければならない)と話され優生保護法が成立するまでの経緯を知りました。
1940年~1948年国民優生法制定。時代背景には戦争に向かっている時期であり(強い兵隊が必要で弱い者はダメという考え)
1948年~1996年優生保護改訂。(国が優生思想を認めた)この法により強制不妊治療や人工中絶(いずれも本人の同意なし)を受けた方は約8万人になります。
また、精神病院を作ることで精神障がいを持つ方が隔離され「自然断種」という形が広まりました。
上記のような歴史的背景の中で優生思考は教科書にも掲載されるなど、子供の頃から教育されていることなど聞き知らず知らずに刷り込まれていることの恐ろしさを実感しました。
参加された方からは「これから運動をどのようにすれば良いか?」と質問がありました。藤井さんからはまず、「気づく力を持つこと」「学ぶ・集まる・繋がる・伝える」そして「動くこと」と話されました。自分は何が出来るのか考え行動していきたいと思います。
最後に金子みすゞの代表作の一つである。『私と小鳥と鈴と』の詩の中で「みんなちがって、みんないい」という言葉を紹介してくれました。つい、人の欠点や出来ない部分を見て非難しがちでありますが、その人の持つ力に眼を向けて支援していくことが看護本来の姿であると再確認ささてもらいました。まず、知ることができ、気づくことができた事を組合運動と現場で活かしていきたいと思います。ありがとうございました。
<日本の精神医療の歴史>
♥私宅監置(座敷牢)と家族へ「保護」を義務付ける暗黒時代
精神科疾患は、平安時代頃まで、「物憑き」「物狂い」といった鬼神的な観念として存在していました。精神疾患患者は、医療の対象というよりは、僧や神官によるお祓いの対象・保護の対象と見られていました。
その後も江戸時代以前は、精神障害者は「座敷牢」という家の一角に閉じ込められ、人目に触れて家の評判を落とさぬようひっそりと育てられました。明治政府はこれを禁止するどころか多くの精神障害者は、「精神病者監護法」を制定しその法のもとに,実質、監禁を容認し私宅に監置され患者の家族が患者を「保護」することを義務づけました。
「精神病者監護法」を制定しても中身は監禁同然の実態は変わらず、精神医学の父と言われた精神科医の呉秀三は、私宅監置の現状を細かく調査し、当時の日本に精神病院が少ない事と、私宅監置を合法化する「精神病者監護法」の2点が原因だと批判しました。彼の提言を受け、新たに「精神病院法」が制定されましたが、実際に私宅監置制度が廃止されたのは呉秀三の没後の1950年の事でした。
当時、呉秀三は「精神病者私宅監置ノ実況及ビ統計的観察」(1918年,大正7)で,その実状を明らかにし、監置室は1~2坪のものが約60%で,極めて悲惨な環境であったといい、入院が私宅監置を上回ったのは,ようやく1924年(昭和4)でありました。精神病院以外の場所でも拘束できる保護拘束の規定があり,戦後まで長く続いたそうです。なお,当時は今では考えられないような様々な拘束用具が用いられていました。「保護拘束」規定が完全に廃止されたのは,1965年(昭和40)の精神衛生法改正においてであり,その間実に65年を要したことになります。
その後も江戸時代以前は、精神障害者は「座敷牢」という家の一角に閉じ込められ、人目に触れて家の評判を落とさぬようひっそりと育てられました。明治政府はこれを禁止するどころか多くの精神障害者は、「精神病者監護法」を制定しその法のもとに,実質、監禁を容認し私宅に監置され患者の家族が患者を「保護」することを義務づけました。
「精神病者監護法」を制定しても中身は監禁同然の実態は変わらず、精神医学の父と言われた精神科医の呉秀三は、私宅監置の現状を細かく調査し、当時の日本に精神病院が少ない事と、私宅監置を合法化する「精神病者監護法」の2点が原因だと批判しました。彼の提言を受け、新たに「精神病院法」が制定されましたが、実際に私宅監置制度が廃止されたのは呉秀三の没後の1950年の事でした。
当時、呉秀三は「精神病者私宅監置ノ実況及ビ統計的観察」(1918年,大正7)で,その実状を明らかにし、監置室は1~2坪のものが約60%で,極めて悲惨な環境であったといい、入院が私宅監置を上回ったのは,ようやく1924年(昭和4)でありました。精神病院以外の場所でも拘束できる保護拘束の規定があり,戦後まで長く続いたそうです。なお,当時は今では考えられないような様々な拘束用具が用いられていました。「保護拘束」規定が完全に廃止されたのは,1965年(昭和40)の精神衛生法改正においてであり,その間実に65年を要したことになります。
♥精神衛生法から精神保健法・精神保健福祉法へ><ライシャワー事件の勃発
「精神病院法」から「精神衛生法」という法律が初めて制定され、精神病者監護法と精神病院法の二重支配の時代が終わったのは、敗戦から5年たった1950年のことでした。
しかし、1964年3月24日、アメリカの駐日大使ライシャワーがアメリカ大使館の本館ロビーで19歳の日本人青年に突如ナイフで太腿を刺されて重傷を負いました。この事件はライシャワー事件と呼ばれています。ライシャワーを刺した青年が統合失調症(当時の精神分裂病)による通院歴があることが明らかになり、新聞各社は「異常少年」「当局精神異常と断定」「変質者」「野放し状態なくせ」など精神障害者が野放しになっていると批判する記事を多数出しました。日本政府および世論は精神障害者への態度を急速に硬化させていきました。自民党治安対策特別委員会は「異常者施設増強の方針」を決議し、政府の法改正案は精神障害者の「施設増強」と「家族・学校・医療機関の保健所への報告義務」をうたい、また精精神障害者への治安対策を盛り込み1965年に精神衛生法の大幅改正が国会で成立しました。さらに自傷他害が著しい精神障害者に対する緊急措置入院制度が新設されました。入院措置の解除について法手続きが必要となりました。精神病棟による入院隔離が強化されることとなりました。これにより精神病床も急増。1960年には9万床であった精神病床が、1970年には25万床へと大幅に増加しました。日本は再び隔離型精神医療へと戻り、医療技術の発展は大きく遅れることになります。
しかし、1964年3月24日、アメリカの駐日大使ライシャワーがアメリカ大使館の本館ロビーで19歳の日本人青年に突如ナイフで太腿を刺されて重傷を負いました。この事件はライシャワー事件と呼ばれています。ライシャワーを刺した青年が統合失調症(当時の精神分裂病)による通院歴があることが明らかになり、新聞各社は「異常少年」「当局精神異常と断定」「変質者」「野放し状態なくせ」など精神障害者が野放しになっていると批判する記事を多数出しました。日本政府および世論は精神障害者への態度を急速に硬化させていきました。自民党治安対策特別委員会は「異常者施設増強の方針」を決議し、政府の法改正案は精神障害者の「施設増強」と「家族・学校・医療機関の保健所への報告義務」をうたい、また精精神障害者への治安対策を盛り込み1965年に精神衛生法の大幅改正が国会で成立しました。さらに自傷他害が著しい精神障害者に対する緊急措置入院制度が新設されました。入院措置の解除について法手続きが必要となりました。精神病棟による入院隔離が強化されることとなりました。これにより精神病床も急増。1960年には9万床であった精神病床が、1970年には25万床へと大幅に増加しました。日本は再び隔離型精神医療へと戻り、医療技術の発展は大きく遅れることになります。
精神衛生法は精神病院法(1919年制定)の隔離収容主義をそのまま受け継ぎ、精神病院、とくに私立精神病院を増やす施策を最優先したため、精神病院、精神病床は増加の一途をたどり、1960年代に始まる「脱施設化」(精神障害者の処遇を施設中心から地域中心に移す政策)の世界的動向から逸脱する結果を招きました。
しかし、宇都宮の一私立病院で起きた患者の人権侵害事件(1983年)が契機となり、国の内外からの精神衛生法改正の厳しい要求に押されて、政府は法改正を余儀なくされて、1988年、精神衛生法は精神保健法に改められ、入院患者の権利を保障するための規定が設けられるなどの改正とともに、初めて授産施設、援護寮などの社会復帰に関する制度が設けられました。さらに1995年には、障害者基本法の成立をうけて、精神障害者の福祉施策を取り入れ、精神保健法が「精神保健及び精神障害者の福祉に関する法律」(精神保健福祉法)に改められました。
わが国の精神障害者施策が精神衛生法の施設収容一辺倒から、精神保健法で社会復帰を取り入れ、さらには精神保健福祉法で福祉施策を加えるように変化した要因として、第1に、1960年代に始まる抗精神病薬の開発などによる精神障害の治療の進歩によって、精神病院に入院している人たちの退院と社会復帰の可能性が増大した事や、第2に、1980年代から民間の草の根運動によって地域で生活する精神障害者の働く場所(共同作業所など)、住まう場所(グループホーム、アパートなど)が全国に広がり、その活動の中から地域リハビリテーションの現状からみて、あまりにも立ち遅れている精神障害者の社会復帰と福祉に関する法制度の改正、整備を要求する運動が盛り上がりを見せた事が改正に拍車をかけました。
このようにして、現行の精神保健福祉法は、医療・精神保健に加えて社会復帰、福祉の施策を取り入れ、一応は時代の要請に応えた形となっています。しかし、その内実をみると、医療では精神病者監護法の監護義務者が保護者制度として温存されているとか、精神障害者の定義に社会復帰、福祉の対象としての障害者の視点が欠落しているなど改正を要する点が少なくないばかりでなく、社会復帰、福祉の施策にいたっては、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法に比べてあまりにも落差が大きく、法の下での不平等さが残っています。
精神保健福祉法は第1条目的で精神障害者の「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行う」ことを謳っていますが、それが本当に実行されているのか疑問を残しています。その証拠に未だに社会的入院問題の解決には至っていないのが現状です。